ベトナムでの事業の為に会社や投資ライセンス、
オフィスに施設などの準備を重ねて、俺とヒンは
1998年5月に本格的にホーチミン市へ入って行った。
Maiの親父さんである、Thaiさんが持つ2つの会社と、
松田のオヤジが持つ香港の会社との合弁で申請した、
Công ty Cổ phần Oải hương
(Lavender Joint-Stock Company)ラベンダー社と
Công ty thương mại Màu tím
(Purple trading company Limited)パープル社、
2社の設立許可が出たからだ。
ラベンダー社での当面の主たる事業が、エビの養殖と
計画したため、広東省湛江市の養殖場を幾つも
手掛けた唐曉明を迎えた。唐さんは、上海水産大学
(現上海海洋大学)で海老に特化した研究をし、
抗生剤を求めて陳さんと知り合い、今回もその陳さん
からの声掛けで即、ベトナム行きを決断したという。
詳しくは聞いていなかったが、松田のオヤジが香港
からの投資と決めた理由には、その湛江市の
養殖場や唐さんが関係しているという。
全て松田のオヤジの手配と金だったが、
俺はこのラベンダー社のシェアホルダーとして
投資者VISAで、カオル(ヒン)はパープル社のそれで、
それぞれ入国した。
一足先にホーチミン入りしていた俺は、
モスクワ大学を卒業して帰っていたMaiと共に
カオルを迎えにTân Sơn Nhất
空港へ出た。
「暑っついなぁ 溶けそうやぁ」
「ちぃとマシになったんだよ。先月はマジ炎天下で
死にそうだったんだけどよ。最近はバケツ雨がいっ時
降るんでマシさぁー」
「マイ、黒なったなぁー 日本語勉強しとるんかぁ?」
「少しです。 Câu “tôi không
nói được tiếng Nhật” trong tiếng Nhật là “
(日本語が話せませんって、何て言うのぅ?)」
「日本語むりぃー やぁ ハハハハハあ」
「おぃ・・ちゃんと教えろよぉ・・」
「にほんごは、むずかしです・・」
「大丈夫だよ。上手上手。
Hãy học cách phát âm chữ Hán.
Cách viết là chung.
(漢字から発音を勉強してごらんよ。)
「Thể loại: Phát âm chữ ??
(漢字の発音??)」
「Đúng vậy. Có rất nhiều điểm chung.
(そう。共通点が多いよ。)
Ví dụ như sự đồng ý.
(例えば、同意とか・・)
意見(ý kiến)
記念(kỷ niệm)
衣服(y phục)
管理(quản lý)
国歌(quốc ca)とかいっぱい」
「kkk Cảm ơn(へー ありがとう!)」
「それも!Cảm ơnは、感恩 なんだよ」
「なんやぁー ソンが先生したってやぁー
ハハハハハあ」
「とにかく荷物を置きに帰ろうや。
荷物は俺のホンダに。ヒンはMaiのケツに乗りなぁ」
「はぁ?ホンダぁ?」
<あっイケねぇ・・ツイ・・>
「・・バイクだよ・・」
向こうでは当たり前に、バイクの事をホンダって
呼んでいた。ホンダ社のホンダなのだが、
バイクの代名詞だった。なんなら、YAMAHAの
バイクも、ホンダと呼ばれていた。
「ホンマやぁーマイのんHONDA DREAMって
書いてあるわぁー ハハハハハあ。?ん?
ソン、お前のん何やぁ?それ?」
「俺んのは中国製よ・・」
「はぁ?ホンダ チャうやんけぇー
ハハハハハあ」
「それ・・Maiの本物のホンダ・・
$1300もすんだぜぇ・・」
「1300ドルって何んぼやぁ?・・」
「15万くらいかなぁ。俺のは6万・・」
「そうかぁーそうやなぁー やっぱり
ベトナム来たらバイクやなぁー
ハハハハハあ。俺も買うぅー」
ホーチミンからは車で4時間ほどの、
メコンデルタCần Thơ (カントー)で養殖場を
はじめとする加工場や倉庫の着工を前に、
Thaiさんが持つ幾つかの家の内の一つに俺らは
居候した。そこは、
第5区のチョロンという中華街に近い、
サイゴンディーゼル発電の電線が直接引かれた
エリアで、周囲2方を軍施設が囲う場所にあった。
Thaiさんがここを買い取ったのは、軍人さんに
囲まれた安全地帯であった事と、
第一優先電気供給の場であり、
停電が少ないというところだと聞いた。
「マイ、オヤジは今度いつ帰って来るんやぁ?」
「Maiに聞けよぉ・・」
「ワシ、ベトナム語しゃべる時、
頭ぁコンがり返るんやぁー。
せっかくやから1から勉強するわぁー」
「だな。Maiの日本語学校に一緒に行けば?」
「お前ぇ・・日本語学校は
日本語を教えるとこやろぉー」
「そうだけど、まったくのゼロスタートじゃ
無えしさぁ、日本語xベトナム語の授業に
参加してたら、そこそこ単語の词汇
が増えると思うけどなぁ」
「いやぁー面倒くさいわぁー。
ベトナム語は福建流れの
海南語とかに間違いないからぁ、
ワシは中国語からベトナム語に頭を変えた方が
判り易いんやぁー。
そんな先生ぇ探すわぁー」
「明後日はさぁ、động thổが有るからって、
Nhà Bèに行くからさぁ、
終わってから探そうやぁ」
「はぁ?ドントゥ?ニャーベ?」
「・・động thổってそのままでさ、“動かす土”って
事だから、着工式だと思うんだぁ。
Nhà Bèは場所よぉ。ホーチミン省ニャーベエリア
って感じ。ホンダで・・あ、バイクで2時間くらい」
「おお!バイクで行くんかぁ!
ほな俺、バイク買いに行くぅー」
「いや・・明後日はMaiが来るまで行くって
言ってたけど・・」
「ええやん!どっちみち買うしなぁー。
買いに連れてってくれやぁー」
こうして始まったベトナム生活。
ヒンのスタートはMaiとパープル社の環境整備が仕事で、
貿易の開始までには時間を持て余す日々で、
ベトナム語を改めて勉強したり、何やらハップキドー“
らしき”モノに公園で参加もしたりしていた。
俺は唐さんを迎えたり、養殖場建設の進捗を観ながら、
“パンガシウス(ナマズ)”の稚魚の確保に
走り回る日々が多かった。
視察時にはバスやタクシーを使ってきたが、
ホーチミンから7時間8時間掛かるメコンデルタを
巡る時も、雨だろうが台風だろうがバイクで向かった。
叔父叔母の協力もありまた、神戸大の高橋教授からの
アドバイスも受けながら、順調にナマズから得る魚油
も事業計画が進んでいた。半年が過ぎた頃、
養殖場エリアのニャーベ地区人民委員会から協議の
申し入れが入り、Thaiさんと共に参加した。
下てな言葉ながら、常に上から目線な政治部の人達。
内容は、Thaiさんが専門では無い事業に
投資ライセンスを“与えてあげた”のだから、
その見返りとして、
地域の貧しい人への寄付とパーティー(お祭り的な)
を来月の15日に行いなさい。というモノだった。
早速神戸に連絡を入れた。
「お疲れ様です。
今日の政府との報告なのですが・・」
「おうお疲れさん。どうだったよ?Thai
(タイ)さんはいつまでサイゴンに居るんだぃ?」
「はい。来週いっぱいホーチミンに居て、
ハノイに寄ってからシドニーに戻ると言ってました。
政府は・・何か勝手な事ばかりで・・
また金を用意しろって・・」
「フゥン。幾らだぃ?」
「2万ドル程です・・貧困層への寄付だそうですが・・
あと、それを受け渡すパーティーを、歌手だとか
司会者だとか、飲み食い代だとか・・」
「そうかぃ。んで、タイさんは何んて?」
「予備費の範囲だと・・」
「フゥン。なら想定内って事よ。あれだな。
大陸と同じだな。まあどうせ遣るなら派手に行けや」
「はぁ・・はい・・でも散々、公安や軍だのって、
今まで・・」
「フゥン。ソンお前さん、いつから日本が正しくて
ベトナムや中国が間違ってるみたいな事を思う様に
なったのよ?日本も同じよ。裏でこそこそするより
堂々と上納する方が気持ちいいじゃ無えか。
先ずはタイさんから出来るだけ多く盗めや。
タイさんの真似をしてみろ」
「はぁ・・はい・・それがぁ・・Thaiさん、
公安にしても政府関連にしても・・
すげぇ弱いんです・・なんか、
マジこの人、大丈夫かなって・・」
「弱く無えよ。本物っていうのはそう言う者よ」
「はい・・」
「いいかソン、能ある鷹は爪を隠すモンよ。
タイさんを信じろや」
<能ある鷹・・森の中の虎・・だ!>
「はい!そうですね!わかりました!」
「何でぃ?急に元気になりやがって フゥン」
何てことは無かったのだ。
日々の小さな小さなストレスが、頭の中が
狭く硬くなってしまっていた。
半年を過ぎても目立って進まない養殖場の
工事現場を覗けば、作業員が2時を過ぎても昼寝を
していたり、そのくせ、4時には子供の迎えと
言っては帰っていく。
バイクに乗っていても、交通ルールなんぞ
無い等しい。
メコンに沿った田舎に行くとテキトウ過ぎる
飯屋で腹を壊すし、ホーチミン市内ではウザい
過ぎる花売りの小っちゃい子が付き纏う。
でも、そうなのだ。
それがここなのだ。
何もかも、今ここで見て聞いて触れて呼吸
している事ぜんぶが、俺の故郷、ベトナムなのだと。
ヤクザな政府機関も、それに応じるThaiさんの態度も、
ここの現実であり、それこそを理解して
ここで生きるのだと。
貝貝先生が言う“森の中の虎”を
感じて、喰われる事無く生き抜く。
そうだ。俺はここで“虎”に成るのだ。と。

