第2話 震災

novel

1995年1月17日、あの地震が俺を神戸に住まわせた。

両親はベトナムでも多くはないプロテスタントで、北部のタンホア(Thanh Hoa)の農村で生まれ育ち

南に下った親父と、サイゴン(現ホーチミン)から近かったファンティエット(Phan Thiet)の漁村

で生まれ育った母親が、サイゴン陥落後から日に日に重圧がかかる宗教弾圧と、急速に進んだ社会主義体制からのヒモジさに耐え兼ね、母型の親族の必至の手配でファンティエットから出航する船に乗ったボートピープルなのだ。

1975年、宗教が繋いだ親父と母親がたどり着いた横浜で俺は生まれた。

当時から在るハマの団地では、生粋の日本人を探す方が難しいほど、様々な国の人が暮らしていた。

両親はそんな団地で次から次へと開店していく、BBQ店やヌードル店に串焼き屋台、ブラジル料理に

インドやスリランカのCurry屋までに、その食材・備品や厨房機器を調達する便利屋をしながら、

二人とも老上海という中華屋で洗い物や接客など、寝る間もなく働きながら俺を育ててくれた。

貧乏だったが、団地のどの飯屋に行っても、タダ(無料)飯で腹いっぱいにさせてくれていたし、

タダで外国語も学べた。義務教育と公立の高校までは然程、親に負担も掛からなかったのだろう。

我々の様な外国人にも日本はとても優しい政策があり、両親は口癖のように、

「日本はいい。人も国も親切」と俺にも諭していたくらいだ。

俺の中に在るプロテスタントは、両親の信仰思想が強く、自由で謙虚で素朴というモノ。

人混みの中にあっても、邪魔にならないモノということを子供乍らに肌身で覚えた。

俺が高校を卒業する年には、そんな二人(両親)だったからなのか、顧客や周りの皆に好かれ、便利屋から→食品の卸・小売りや貿易商の会社を営み創めてから10年が経っていた。

俺は何がしたい訳もなく、ただ、皆(同級生)の大学へ進学という「流れ」が嫌で、両親からも強く促されたがその道だけには反発した。

尾崎の歌が影響した訳ではないが、これ以上の学生生活に意義を感じられなかった事もその理由だが、とにかく皆と同じような方向に、流されることが嫌だった。

そして普通に親父おやじの手伝いをする毎日。

ここが俺の居場所だった。

「Sonソン、明日は中村君と一緒に、倉庫に行ってくれないか」

親父おやじは俺をソンと呼ぶ。

その後の出逢などの事情と、何より両親の勧めもあったので、

今では帰化に伴って姓も名も日本読みなのだが、

改名前は、

Nguyen Son Long(阮山龍)

という、間違いようが無いほどのベトナム名だったのだ。

中村さんは、俺が中坊の頃に入社してきた社員さんで、若手で真面目で結婚したてホヤホヤの、俺とも一番親し人だった。俺も、春に卒業してから社会人はじめての年を越し、仕事もかなり解ってきた頃だった。倉庫に行く意図が、年末に親父(社長)が言っていたブルーシートの棚上げの確認だとわかっていたのだ。

「OK 在庫確認だけでいい? 何か出す?」

「そうそう。仕方がなくてさあ・・中国からの押し売りで買い込んじゃったのさ・・」

「そうなの。じゃ いつでも出せるように整備もしておくよー!」

「Cảm ơn(カムオン:ありがとう)ね」

翌朝、港に在る倉庫に着くと、錆び付いた40フィートのコンテナが4TEU(2台)、駐車スペースに置いて在った。中は全部ブルーシート。伝票には、3.6×5.4×10枚が720setとあり、それが2台で、14,400枚だと言うことは判った。問題は、月末までに中身ブルーシートを倉庫内に移すか、出荷するか? 

とにかくコンテナから出さなければコンテナのリース代や駐車スペースのお金などなど、そもそも押し売りを受けた現物代金も痛ければ、そんな費用も無駄過ぎると思っていた。

「ったく・・うちのおやじは何考えてんのよ」

「いいじゃないですか。相当、安い買い物だったそうですよ」

「安いったって15,000枚アバウトだぜ? これっていくら位するものなの?」

「小売り相場は1枚800円前後かと。入れは半値八掛けとして、320円ですかね。14,400×320=・・・・

460万円くらいかと思います」

「でしょう・・そんなに売れる物なの?ブルーシートってさあ?」

「たぶん10セット単位で顧客に出すんじゃないでしょうか」

「は?・・つまり、100枚づつってことでしょう・・ブルーシートを受けてくれる顧客が150もあるの?うちは?」

「無いっす」

「そこ即答なのーー?・・じゃやっぱ長期戦だよね・・仕方ないか・・じゃ倉庫に積み直そうよ」

<コンテナのリース費や駐車場のことを心配した>

「そうですね。そうしましょう」

と、2人で丸一日費やして3分の1ほどの440梱包(4,400枚)の移動をして帰宅した。

団地のくさびれた鉄のドアに穴が開いている訳ではないが、母おふくろの作る夕飯のニュクマムの香りが通路に充満している。日本人の連れや社員さんは、この匂いが嫌のようでうちには来たがらないのだが・・

「Conコンおつかれさまあ。ごはん食べなよ。あ、そうそう、倉庫どうなの?」

Con(息子を指すベトナム語)と、母おふくろは俺をそう呼ぶ。

「どうって・・ブルーシートがいっぱいでさぁ、中村さんと色々考えてさ、そんなに売れねぇだろうって・・だから倉庫に移動中。倉庫に全部入るか?も・・まだ分かんないんだけどさ・・・・ねぇ 

かあさんも知ってたの?」

「何なになに?何を?」

普段からスッとボケた顔と態度の母・・

「とうさんがあんなにいっぱいブルーシートを買い込んだこと」

「もちろん!  私が買っちゃいなさいって言ったのよ」

「は?・・・・あ・・そうだったんだ・・」

「コン、いくらだったと思う?」

「それさあ、中村さんと計算してみたのさ。1枚大体320円くらいじゃないかって」

「ブッ・ブッ・ブゥー。不正解者は唐辛子ひとつ追加!」

「辛いっ・・・・じゃ やっぱ500円とか600円とか・・??」

「あと10秒・・ツッ・ツッ・ツッ・ツッ・・」

「待ってまっぁて~ ヒントください。もしかして もっと安い?」

「80円!」

ヒント与えずマンマ答える母・・

<てか>

「まじ?」

「コンわかるの?その安さが?」

「中村さんが売りの相場は800円だって。だから半値八掛けで三百円・・・

え? 9割儲けじゃん」

「そう! もとは川崎の産廃業者がね、材料(廃プラ)を中国に出して、それで造ったシートとかをまた買い取るってやってたのさ。でもその川崎の業者が潰れちゃったらしくて。年末だったでしょう。荷受けする業者も無かったみたいでさ。老上海のオーナーから電話があったの」

「そうだったんだ。・・・じゃあさ、コストとかお金の事、色々考えなくても良かったんじゃないの? てか、俺たちが倉庫に移す人件費が一番高くね?」

「あぁ~っ!」

天然型スッとボケ母・・

「え なに?」

「ガワのコンテナは内んだよ!あれはその川崎の業者の物だったからコンテナ付きなんだよー。移動なんてしない方がいいよー。パパ言ってなかったの?」

「てかさっきも言ったでしょう・・倉庫に移動中ってさ・・・・」

「聞いてなかったわ。ハハハハハぁ~」

「・・・・」

そんなこんなの中、親父も帰ってきて、

「なんだか楽しそうだね。ソンもママも何かいい事あったみたいだね!よし!今日はネップモイ

(Nep Moi:ベトナム産ウォッカ)飲もう!」

「・・・・」

点々点な俺は、この家族では毎度のことで・・

そんなおふくろに、このおやじ・・

俺だけは日本人の様に、曖昧さの中に意思を理解し合う、そんな大人に成りたいと強く思ったものだった。

その夜は親父に付き合って、散々ネップモイを飲んでシャワーも浴びずに寝込んでいた。

目覚ましも鳴っていない明け方早くに、

「コン。大変・・見てー」

と、おふくろが指さすテレビには、まるで戦場映画の様な画面が映っていた。

ヘリコプターから映し出される映像には至る所で火が起き、モクモクと立ち上がる真っ黒の煙の下には木造の家もコンクリートの建物も崩れ落ち、ハイウェイもが倒れているのが見える。

「どこ? 爆弾? 戦争? 日本なの? どこ??」

あのようなテレビ中継は見たことが無かった・・・・・・

夜中には築地へ出ている親父からの電話。

「今朝は市場も大変だったんだ。みんな(関西の友人知人)に連絡しているのだけど、神戸の連中には連絡が取れないんだ。明日からは市場の状況も変わるだろうし、一応、会社の全員を集合させておいてくれ」

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